10年目のフクシマ2021

復興とはなんだろう。

一度衰えたものがもう一度盛んになることなはずなのに。
2021年の今フクシマで何が起こっているか?
この目で何度も見てきました。
(写真拡大可、利用自由)
最新更新 2021.6.17




憂いを感じる

夜ノ森の桜並木



 
福島県富岡町字夜の森には、樹令100年のソメイヨシノが並び、見事なサクラのトンネルをつくっている。2021年4月3日(土)にも多くの人が見学に来ていた。
 
 しかし、トップ写真の先には許可された人しか入れない。
 
 道路に落ちた桜の花びらを素手で拾上げ、空に舞いあげた女の子。「やめなさい」と母親が声を上げる。並木通りに設置された「この先帰還困難区域につき通行止め」の看板をじっとみる若い人たち。駐車場になった「富岡第第二中学校」で唯一のこされた校門を撮影する年配女性。
 
  校庭跡地の出店では食べ物の販売はほとんどない。飲み物だけ。地元の社会法人ワークセンターの「青のりさしみこんにゃく」買ったら、おまけに「糸こんにゃく」もくれた。道路に1件だけできた出店で、お好み焼きを買って、人混みを避けて食べたら冷えてまずかった。
 
 道路両面に設置された柵は比較的な新しいようにも見え、せっかくのみごとな桜並木に、憂さえ感じた。
2021.3.3
 
追記: 福島県富岡町字夜の森は帰還困難区域になっているが、夜ノ森駅を利用する乗客はいる。写真は2021.4.8  1214いわき発原ノ町行常磐線普通列車内から1306に撮影。少なくとも5-6人の乗客が下車している。桜もかなり散ったようなので、花見の人には見えなかった。
 
参考 JR常磐線夜ノ森駅舎の解体について
https://www.tomioka-town.jp/oshirase/2299.html
夜ノ森駅について、以下がよく書けているようだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9C%E3%83%8E%E6%A3%AE%E9%A7%85  

 53億円の原子力災害伝承館  が伝えるもの?? 


 
昨年2020年9月20日、福島県双葉町に東日本大震災・原子力災害伝承館がオープンした。
 
 トップの写真の「原子力明るい未来のエネルギー」の看板は、縦約2メートル、横約16メートルの看板は1階屋外のテラスに展示。文字盤をはめ込んでいた看板の本体部分は腐食が激しかったため新調した。看板の案内にはそのことは触れていません。「看板の本体部分は腐食が激しかった」ためといいます。当時小学6年生が学校の宿題で標語を考案。「無念」のアニメ映画では、残してほしい」との切なる訴えが、描かれていました。

「未曾有の複合災害を経験し、復興へと歩んできた
 福島の記録と記憶を、防災・減災の教訓として、未来へつないでゆく」。

というのがキャンチフレーズ。国が作り、県が運営している。その総工費は53億円。
2階にはワークショップスペースがあり、1日3回の「館内語り部講演」がよって行われている。
 
 これだけでは何か素晴らしい気がしてくるが、・・・。学生の団体もバスで訪れていたが・・・
 
ワークショップで語られた講演のときに配布されたチラシには
「当館には29名の登録語り部がおり、みなさんそれぞれが様々な形で複合災害を経験されています。
 これらはすべてが東日本大震災によって引き起こされた事実であり、後世に継承していくべき記憶、教訓です。」
 
 でも、同パンフの注意には「講演の撮影及び録音、SNSへの投稿はお断りしています」。私の聞いた素晴らしい話も書けば、違反というのだろうか? 「10年間貯めた写真を20分間で話せというのは」という語り部の発言も。チラシでは40分間なのに。チラシでは1日4回となっているが、最後の4回目の開催はなくなったようだ。
 
 突っ込みどろがいくつもあるが、ピカ一は「福島県内の空間線量は海外主要都市とほぼ同じ水準」というパネル。南相馬0.06μSV/h、いわき0.06μSV/hと記載して、中間の市や町はない。この日通った国道6号線でも1.519μSV/程度はあった。常磐自動車道路では最高値が2μSV/h当たり前に出ている。館内のスタッフにここだけの話としてこっそり聞いてみたが、「ホットスポトがありましてね」と。
 
例えば、原発立地の大熊町では最高値6以上になっていいます。
 https://radioactivity.nsr.go.jp/maps/ja/area.html 
・この看板「原子力明るい未来のエネルギー」について神奈川新聞が報道しています。

看板は、実は新調したものでした。
看板の案内にはそのことは触れていません。
「看板の本体部分は腐食が激しかった」ためといいま 


 皮肉な「原子力推進」の看板展示 | カナロコ by 神奈川新聞 (kanaloco.jp)

 


 

 原子力災害伝承館が伝えたいもの?? 2 

追記:展示の富岡第二小学校6年生の作文

 


 
体験学習で学んだこと 
 
 ぼくは、この二日間の体験学習でいろんな事を学びました。 
 ぼくは一番すごいなあと思った事は、原子力発電所のおかけで、生活がゆたかになったと言う話です。 
 昔は、くつ買えなくて、田んぼの仕事の無い冬には東京へ出かせぎに行ってたのに、発電所ができおかげで人口もふえて、車を買えるような大金持ちも現れて来たのですごいです。 
 (空欄)をして今では、いろいろな文化や最新技術を取り入れた安全な原子力発電所だけれども、そのせつびに新しい技術をどんどん取り入れいって自然や人にやさして発電所にすれば、もっといいと思います。
 がんばってください。」 
 
展示企画者はどういう意図で展示しているのだろうか? あなたはどう思いますか? 
 
 大事なのは原発事故後にこの子がどう思っているのかではないでしょうか。 
 
 展示には浪江町消防団物語「無念」のアニメ映画が紹介されているが、映画の中で描かれている「原子力明るい未来のエネルギー」の標語の作者(当時、小学生)の訴えと無念のシーンはない。(行為なのかどうかは分からない) 
 
 国道6号線から入るときれい舗装道路と伝承館、広大な芝生しか見えてこないが、ちょっと裏に入ると、トップのような光景が見える。 
 
「(学生服の男子学生二人)バスの時間があるので、途中から退席していいですか? 」 
「いいですよ」と語り部さん。 
「どうから来たの? 」と私。「上野です」 
 
 上野からパスできたという学生はおそらくトップ写真のような光景は見てないだろう。 
 
写真:2021.4.3及び2014.4.9撮影 

 

左下は2021.3.29撮影の原子力災害伝承館前の写真です。しかし、この自動車の残骸はきれいに片付けられていまいした。一方、 宮城県気仙沼市の東日本大震災遺構・伝承館の写真と比較してください。

同じ宝を消し去る自治体と残す自治体の差とは?

face bookの読者者の声から
・ 誰がどう思うかは個人的な問題です。大切なのは(思想的に中立な)事実を伝えることでしょう。

リスクと恩恵。

しかしリスクを背負って恩恵を受ける人。恩恵を受けずにリスクを背負う人、リスクを背負わずに恩恵を受ける人。

それぞれ考え方が違うのは当たり前です。 
・ この子は、たぶん11歳位だろうと思います。であれば原発事故当時の事も覚えてないだろうし、まして原発が無かった頃の貧しい暮らしを知る筈も無いでしょう。 


 農業の復活 南相馬原町 

 

写真は南相馬市原町の菜の花畑。上空には小鳥がさえずりっている。 

 ここ南相馬市原町区は福島第一原発から20㌔から30㌔圏内にある。2011年9月30日には緊急時避難準備区域が解除された。南相馬市全体では耕作面積8400㌶の内、被害推定面積は2,722㌶、被害面積率は32.4%。

 南相馬市復興企画部発行の「東日本大震災福島県南相馬市の状況(平成30年2月9日現在)によると、事故年には市内全域で米付制限、12、13年は作付けを見合わせながら、実証栽培を行い、吸収抑制対策の効果等の検証。14年からは全量全袋検査で100ペクレム/㌔以下の米を出荷。米以外は、作付け制限はなかった。 

 南の10㌔圏内の市内小高地区は12年-13年まで「警戒区域」、13年~16年7月12日まで避難指示解除準備区域で当てはまらない。 

 左下は麦を植えているそうだ。ところどころに菜の花が咲いているところをみると、先に菜の花を植えていたかもしれない。右下の畑には何を植えるのだろうか? 

 農業の復興はこれからだ。 


参考資料
 「南相馬 菜の花プロジェクトー自然循環の社会形成に向けて」 

https://jn.lush.com/article/soapbox-201602 

(ただし、写真の菜の花と関係しているかどうかは不明です) 

 

先が見えない状況の中、何とか農地を再生し、農業を復興したいという思いで始めたのが、「菜の花プロジェクト」です。除染効果を持つ菜の花を農地で栽培し、収穫した菜種から油を搾る。搾った菜種油には土壌の放射性物質が移行しないので、商品化して売ることができる。さらに、搾りかすからバイオガスをつくり、エネルギーとして再利用することも可能です。

face book読者の声から
 菜種栽培はもちろんウクライナでの実験結果があってのことですが、菜種栽培はもう一つの意味があります。それはこの地が二宮尊徳の報徳仕法によって救われたという歴史があり、少年時代の金次郎はひとつかみの菜種を荒地に蒔いて100倍に増やすことに成功し、後に「積小為大」という報徳仕法を表す言葉の1つとなりました。 

南相馬市原町区小沢下戸屋迫 

―田んぼもできず、人も住めない訳とは?



 
「ここが畑かって」 
「いいや、皆な田んぼだった。 
だけんじょ、今は米さ、つくられんようになってしもうた」。 
 
ここは南相馬市原町区の小沢下戸屋迫(こざわしもとやさく)。原発から20㌔圏内の同市小高地区に近い、高台に位置している。しかし、津波はこの高台をも飲み込んだ。 
 
2013年頃、この高台の崖っぷちに流された家屋が見られた。2017年頃まで解体されない家屋が残っていた。しかし、今は1軒の家もない。ただ、ビニールハウスの残骸が残るだけ。太陽光パネルが設置されているだけ。海沿いには防災林も。 
 
なぜか、行政の作った「津波浸水区間 ここまで」はこの崖の下にある。 
 
軽トラでここに来た年配のおじさんに声をかけた。 
 
「水がないからさ。したがら、以前のように作れん。前はポンブアップして水を上げていたんだ」。 
 
「人も住んじゃいかんという。だけんじょも、だっれも、農地を買ってくれんのさ」 
 
「ソーラでもやるしかない。(高台にあるバネルにさして)あそこもそうださ。 
風車は作ろうとしたけれど、採算とれないとかさで中止に」。 
 
「おれはここに花でも植えようか、と来ているのさ」 
 
「ここに天明時代の移民農民がいってか? あの人たちは浄土宗。1軒はあったなあ」。 
 
取材撮影:2021.4.9 
(なお、会話には福島の方言風に書いていますが、正確ではありせん。福島の方言に詳しい方は間違いを訂正していただければ、幸いです。) 

南相馬市原町区小沢下戸屋迫 
左上2021.4.2、右上2013.8.3、 
 

左 下2017.3.26、右下2018.7.7撮影


浪江町の農業、畑に柵が? 


 
浪江町は福島第一原子力発電所に隣接している町。2017年3月31日に、一部地域の避難指示が解除され、一部地域での居住ができるようになった。しかし、居住率は9%だ。
 
 写真トップは浪江町立幾世橋小学校付近の菜の花畑だ。当たり一面の菜の花が咲いている。近くの畑には作物が植えられていた=右下=が、なぜか柵がまわりに備え付けられていました。動物が入ってくるのを防いでいるだろうか?
 
 町のホームページによると、町内での水稲の作付けは、14年に酒田地区で水稲の実証栽培を開始してから7年目。「未だに避難先から通いながら営農をしている農家の皆さんが多い状況ですが、今年は昨年の約3倍の面積となる84ヘクタールの水稲作付面積となる予定」と伝えられている=参照:
 浪江町に田植えの季節が到来しました | 浪江町ホームページ (town.namie.fukushima.jp) 
 
写真の菜の花の奥に見える小学校は10年目にして解体工事が始まった=左下写真。被災前には浪江町には6つの小学校、3つの中学校に1700人の生徒がいたが、現在は18年に「なみえ創成小・中学校」が開校し、小学生22人、中学生9人が登校している。 

農業復興にはほど遠いようだ。 
 
参考 
浪江町のホームページ 
Foe Japan発行 「福島の今とエネルギーの未来2021」 

2021.4.9 撮影


 再び原子力災害伝承館、チッソとの比較 

 

「〇〇さゃんのお姉さん、チッソマンと結婚するんだって! 」と水俣市の小学校の女の子が興奮して語ったという。チッソマンとは水俣病を起こした熊本県チッソ水俣工場で働く従業員のこと。水俣市ではチッソは尊敬されており、給料もいい。上級国民としてここに来るのは東大卒の超エリートだ。 

 

 これは、去る2021年4月26日(土)東京・有楽町マリオン朝日ホールで2年ぶりに開かれた「第18回水俣病記念講演会」で、文化人類学者・上田紀行さんの紹介してくれた話だ。 

 

 当シリーズ3で紹介した「展示の富岡第二小学校6年生の作文」の作文を思い出す。Face bookでは、大人がやらせで書かせたという投稿もあったが、私はそうは思わない。このチッソマンとの結婚をうらやましがる小学生にも通じるものがあると思った。 

 

 同じ講演で文芸評論家の斉藤美奈子さんは四大公害(水俣病、新潟水俣病、四日市ぜんそく、神通川流域のイタイイタイ病)の記念館を見学して、同じように美しい箱もの行政について論じていた。「国や企業の責任は書かれていない。今は過去のこととして、自然災害のように見えるようにして、なんでこうなったのかボンヤリとしか見えてこない。国家権力は事実を歪曲して、忘れさせるようにしているようにも」。 

 

 写真は伝承館から見える津波被災の建物だ。「あそこに見えるは工場だったのでしょうか? 」と館のスタッフに尋ねる。「さあ、分かりません。地元の者ではないので」 


 国はこの伝承館一帯を福島県(双葉町・浪江町)福島県復興記念講演として設置する計画だ。パンフレットの基本計画4項目のひとつは「事実を伝える」だ。「特に次世代に切れ目なく震災の記憶と教訓を引き継ぎます」として、この写真の建物だけは中野地区集落の住居跡」として残されるようだ。その八幡神社は新しい鳥居が建てられ、材木は切られている。 

10年間で成長した樹木はトラックの板張り加工した荷台を突き抜けて伸びている。 

 

撮影:2021.4.2、4.3、4.9 

 相馬市伝承鎮魂祈念館、被災前の原風景を後世に 


 
写真は福島県相馬市の伝承鎮魂祈念館。「失われた相馬市の『原風景』を後世に残し、遺族の心の拠り所としていくとともに、・・かつての相馬市の姿を知っていたたくための施設です」。 
 
 すでに紹介してきた53億円の原子力災害伝承館が伝えるものと比較して、どうだろうか?と車を少し走らせて訪れた。 
 
2011.3.11の相馬市の被害状況は、市民の死者数458名、行方不明0、住宅被害5,584棟、被災した水田面積1,106㌶。約8分のビデオは津波の現場状況を映し出してくれる。 
 
写真は施設と「犠牲者の鎮魂の場」。石碑には犠牲者全員458名の名前が刻まれているだけだ。内部は津波によって失われた原風景の写真、被災後の写真、天皇皇后陛下の訪問の写真などがバネルとして展示している他、持ち主不明の写真(ほんの一部)の現物が今もそのまま並べられている。当時の地元新聞のトップ記事も展示され、被災当時はゆっくり見られなかった方のためにと、当時の新聞記事のコピーも用意して持ち出せるようになっている。 
 
ここでも震災の松は一本残っているが、館内の職員に伺うと「手入れを施しているが、だいぶ弱っている」そうだ。曲がった樹木の下には、支えの柱がそなえられている。 
 
ここ松川浦は巨大な堤防もなく、この海岸線あたりは昔と変わらぬ姿にも見えた。この地上1階延床面積236.20㎡の祈念館はすごいという施設ではないが、「現風景を相馬市の震災の教訓をつなぐ」というコンセプトは少しわかるような気がした。少なくとも??でいっぱいにはならない。 
 
利用案内 
開館時間 9-17 
休館日 年末年始のみ (53億円の施設は休館日がある) 
入場料 無料 
場所 相馬市原釜字大津270 
(ナビでは大津186-11、または電話番号0244-32-1366で) 
 
撮影日: 2021.4.8 

 中間貯蔵施設

 一日7-8千人働く施設 

 

「これまで660,700㎥・48%(2021.4.2現在)の土壌を安全に中間貯蔵しています」とこの谷の上の案内版にあった。発注者は環境省福島地方環境事務所。施工者は大林・熊谷・大本特定建設共同企業体。トップのような土壌貯蔵施設が、福島県大熊町と双葉町に8ヶ所ある。上記以外に清水建設、大成建設などいずれも日本の名だたるゼネコンがかかわる企業体が主体となって、幾つかの協同企業体がそれぞれの持ち場で処理をしている。 

 

 ここは国道6号線の太平洋にいたる東地区で、福島第一原発を囲む1600haの広大な土地。東京ドームで約340倍の広さだ。6号線を挟んで当たり一帯は帰宅困難地区に指定され、一般の人は立ち入ることができない=コメント欄の図参照。今も当時の学校や壊れた家屋が立ち並ぶ、数少ない地域になっている。処理できないフレコンパックが今も新しく山積されている。4月9日、中間貯蔵工事情報センター主催の見学会に参加した。福島第一原発とは違って、ここでは撮影可能。でも、民間の家屋撮影は不可。 

 

 土壌の底には防水シートが敷かれている。浸出水は、水処理施設=左下写真=で処理し、放射能濃度を測定して異常がないか確認してから放出している。 

 

 とはいえ、法律上、30年後の2045年3月まで県外で最終処分することになっている。 

 

 一方、身分証明書は入るときにも、見学終了後もチェックされる。また、トップ写真の丘から谷(元は田んぼ)を見下ろすときには、ヘルメットと手袋着用。バスに乗るときには靴底の放射線量を図られる=右下写真。 

 

2014年12月から翌年1月に、大熊町と双葉町が中間貯蔵施設の建設受入れを容認。福島県内52市町村で生まれた除去土壌(輸送対象物量は約1,400万㎥)を2021年度まで搬入完了を目指している。働いている人は一日平均7~8千人(福島第一原発では毎日約4000人)。朝7時から夜は10時まで勤労。でもここには社員食堂はない。(福島第1原発内部には社員食堂があり、著者は昼食を食べた経験がある。この日はこの施設から車で15分と聞いて富岡町のさくらモールで昼食した。労働者風の人も多数見かけた。ここまで来るのか? ) 

 中間貯蔵施設-2

1日7-8千人働く施設 

 

トップ写真には、前方には福島第一原発の排気筒とクレーン、左側には除染土壌を受入・分別施設から運ばれているベルトコンベアがある。ベトコンベアは長いもので1.3km、短いもので750m、1600haの福島第二原発を囲む双葉町・大熊町にまたがる広大な土地に点在している。 

 

この周りはすべて帰宅困難地区だ。今も小学校や公共施設、民間家屋が東日本大震災の当時のままに残されている。道路標識には熊町小学校、ヒラメ養殖場などの看板がそのまま土埃にまみれながら見ることができる。 

 

仕組みは大手ゼネコンによっても少し違うようだが、中間貯蔵-大熊2区では次のように行われている。福島県各地の除染作業で集められ仮置き場から、放射能汚染度が計測されて管理タッグを付けられ運搬する。放射能汚染度で8000㏃/kg(注1)を基準に、高いものと低いものの2種類に分別されて、別々な処理場で処理される。 

 

10tトラックで荷下し設備で荷下ろしする。ベントコンベアで建屋に運び、高圧ウォータジェトで人の手に触れずに袋を破き土壌を取り出す。次にふるい機により比較的大きな可燃物や石などを分別、さらに2度目のふるい機により小さな石を取り除く。ベルトコンベアやトラックで土壌施設へ運ぶというものだ。 

 

草木類やフレコンバックの残さは減容化施設で燃やされ、その灰は廃棄物貯蔵施設で保管されているようだ。(見学していないが、施設内の双葉町に1ヶ所ある。環境省の「除去土壌などの中間貯蔵施設について」の冊子による) 

 

処理できないフレコンパックは今も山積みに置かれている。国道沿いなど見かけられなくなったと思ったら、ここに今も健在?だ。 

 

撮影:2021.4.9 

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*中間貯蔵工事情報センター:国道6号線三角屋交差点付近にある。JR常磐線「大野駅」から車で約10分。周りはすべて帰宅困難地区で人は住んでいない。入館料 無料。日・月・年末年始以外の10-16開館。月2度程度、見学会を行っている。要確認。 

https://www.jesconet.co.jp/interim_infocenter/observation.html 

 

*ベクレムとシーベルト 

ベクレムは土や食品などに含まれる放射能の量を表し、一方シーベルトは人体に対して使われる。8000㏃/kg とは、原子力安全委員会(現原子力規制委員会)が示した安全基準。作業員が1日8時間、年間250日の労働時間の内50%(合計1000時間/年)の時間を焼却灰のそばで作業すると仮定して、「年間1ミリシーベルトを下回り、安全に処理できると確認された基準となっている基準」。環境省によると、「搬出時に仮置き場で測定した表面線量率及び重量によって換算した放射能分布によると、8000㏃/kg以下のものは82.8%。 

 

*参考資料 

第6回事故後の放射能汚染にきちんと対処できたのか? 

http://www.ccnejapan.com/?p=12112 

「事故後の2011年に放射性物質汚染対処特措法(特措法)が制定され、政府によって「新たな基準」の導入やいくつもの「線引き」がなされました。顕著なのは、事故前には、100㏃/kg以下であった再利用を可能とする基準が、8,000㏃/kg以下とされたことです。また、同じように放射性物質に汚染されていても、「土壌」については廃棄物と見なされず、「資源」として区分されています。そして環境省は今、その汚染された土壌の全国各地での「再生利用」を推し進めようとしています」 原子力資料室より 

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